歴史

最上級のセトモノツチ「天草陶石」

天草西海岸に産出する世界的な陶磁器原料の天草陶石。掘り出された石を砕き、粉状になったものを、唐臼で時間をかけ粘土状に仕上げます。形を作り、様々な行程を経て1300度以上で焼き上げ磁器となります。製品は陶器に比べ硬く、仕上がりの色は白色で濁りがなく美しいのが特徴です。こうした高品位の陶石の発見は、17世紀中頃と言われています。また、天草陶石は有田焼や清水焼の主原料として使用され、海外にも輸出されています。年間の出荷量は約3万トンで、全国の陶石生産量の8割を占めています。

天草陶石の発見

1728年より1730年までの期間、陶石は砥石として出荷されていたようです。砥石の中に小さな鉄の塊を含んでいることがあるため、刃こぼれを起こし砥石としての評価は低かったようです。有田、泉山陶石と石の状態が似ていたことから、陶石として使えないかと試してみたところ、成形しやすく、色も透き通るような白さであったことから、陶石としての出荷が始まったと言われています。

平賀源内

平賀源内は江戸時代の著名な文化人です。本草学や鉱物学、水準器・温度計・エレキテルなどを制作し理学者としての側面も持ち合わせています。また、戯作者、浄瑠璃作者としても活躍しました。鉱物学者として国内を探索していた1771(明和8)年に、源内が西国郡代に提出した建白書が『陶器工夫書』です。この中で源内は天草陶石を『天下に二つと無い最高級品』と書き、この土を使い最高級の焼き物を焼くことが出来れば、「唐人・阿蘭陀人」などがこれを買い求めて、それが「永代の御国益」になると断言しています。

磁器の伝播 加藤民吉

1804(享和4)年加藤民吉は、同郷の東向寺(曹洞宗)天中和尚を頼り磁器の製陶技術を修めようと、瀬戸地方より天草を訪れました。天中は高浜焼きの窯元でもある上田宜珍(源作)に紹介状を書き、ろくろの製造技術の修行を始めました。その後肥前の窯元にて磁器製造に関しての技術を習得します。その後帰郷を決意した民吉は、帰路再び天草を訪れ、上田宜珍にお礼の挨拶を行いました。このとき宜珍は上絵の技法を口伝したと伝えられています。瀬戸に戻った民吉は磁器の製造技術を伝え、瀬戸の窯業は再び活気を取り戻しました。民吉は瀬戸地方の磁祖としてあがめられています。

1.平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』 明治写)

2.加藤民吉像

3.高浜焼登り窯跡

4.水の平焼登り窯(明治40年頃)

5.水の平焼五代岡部源四郎作の赤海鼠コーヒーセット日英博覧会出品(明治43年)

おねがい

天草の窯元の多くは個人で作陶しています。展示会等で長期間不在となる場合もありますので「不定休」と表示がある窯元へお出かけの際は、事前にお電話にてご確認ください!

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