歴史

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世界に誇る「天草陶石」

天草西海岸に産する天草陶石は、単体で磁器※1を作ることができる世界的にも珍しい陶磁器原料です。掘り出された陶石を粉末にしたのち水簸すいひ※2し粘土状に調製。成形・削りなどの製造工程を経て、1300℃で高温焼成すると磁器が完成します。磁器は陶器※3と比べると硬く焼き締まっていて、金属的な音を発します。特に天草陶石で作られた製品は、それ以外の陶石で作られた磁器製品と比べ、白さに濁りがなく美しいのが特徴です。約300年以上前に発見されたとされる陶石は、当初、砥石として出荷されていましたが、砥石の中に鉄の塊が散見され刃こぼれが起き、長期間の切り出しには至らなかったようです。現在は優れた磁器原料として全国の陶石生産量の約8割を占めています。また電気的絶縁性も優れており、高圧碍子の原料として日本の電力普及に大きく貢献しています。

高浜焼登り窯跡

※1 磁器陶石を用いて1200~1400℃で焼成したもので、吸水性がなく硬度で熱伝導率が高い別名「石物」という。
※2 水簸細かく砕いた陶土(又は陶石)に水を混ぜて、攪拌し、砂や石などの不純物を取り除き、粒子の細かい陶土(又は陶石)を採取する方法。
※3 陶器陶土を用いて800~1300℃で焼成したもので、吸水性が高く釉薬を施したものが多く、熱伝導率が低い別名「土物」という。

天草陶石の発見

日本における磁器製造は朝鮮より連れてこられた陶工・李参平が有田(佐賀県)泉山で陶石を発見したことによりはじまります。この頃焼物は鍋島藩を支える基幹産業であり、泉山陶石が鍋島藩から持ち出されることは不可能でした。そこで平戸など近隣の窯業産地が目をつけ用いたのが天草陶石です。白さと可塑性かそせい※4に富む天草陶石は細工物や精緻な絵付けを施す素地として好まれ、有田でも天草陶石を多少でも混ぜるとよいとされ、現在に至るまで永く重宝されてきました。また、「アマクサ」といえば天草陶石を指すほど、全国の陶芸家より陶芸材料として広く使われています。

※4 可塑性思うようにモノの形を作れること。

平賀源内

江戸時代に戯作や浄瑠璃の作者として著名な文化人であった源内は、本草学や鉱物学などにも通じており水準器や温度計・エレキテルなど理化学機器の製作者としても名を知られていました。多方面に多彩な源内が特に尽力したのが殖産興業で、二度目の長崎遊学のときに目にした天草陶石の素晴らしさについて西国郡代に提出した建白書が「陶器工夫書」です。この中で天草陶石を「天下無双の上品に御座候」と評し、この類い稀な上級の土を使って洗練された焼物を焼くことができれば「唐人・阿蘭陀人」までもが買い求める「永代の御国益」になると断言し自らの出資まで申し出ています。

平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』 明治写)

陶器工夫書

磁器の伝播への役割

19世紀のはじめ、瀬戸焼の再興をかけ加藤民吉は天草の東向寺・天中てんちゅう和尚を訪ねました。同郷の民吉の力になろうと天中は高浜焼窯元の上田宣珍よしうずに紹介状を書きます。受け入れられた民吉は宣珍のもとでロクロ成形の修行を始めます。天草での修行ののち、肥前へ渡った民吉は苦労の末、磁器製造に関わる知識と技術を習得し、瀬戸への帰路につきました。途上、天中と宣珍に御礼を述べるため天草を訪れた民吉は、滞在中、宣珍とともに試作を重ね知識や悩みを共有し、天草を去る際に肥前では得られなかった、色絵技法について宣珍より口伝を受けたと言われています。3年に及ぶ修行を経て瀬戸へ戻った民吉は瀬戸の人達と力を尽くし、瀬戸焼の中興の祖と言われるようになり、磁祖として窯神神社(愛知県瀬戸市)に祀られています。
瀬戸における陶磁器再興の役目を負った民吉のため尽力した天中和尚は、天草市本町の東向寺(曹洞宗)の住職でした。東向寺は天草・島原の乱のあと民心の安定のために設けられた天草の四ヶ本寺の一つです。境内には民吉が天中を訪ねて来たときの様子を記した碑があります。

加藤民吉像(瀬戸市 窯神神社)

東向寺

天中民吉邂逅の図(東向寺/寄贈 瀬戸市)

先人の知恵と行動力

上田家

高浜の庄屋であり、高浜焼の窯元であった上田家七代・宣珍は六代目の父が始めた陶山の経営と製陶業を継承し全盛期を迎えますが、経営は苦難の連続でもありました。しかし陶石販売と製陶業を村の繁栄のためと考え、焼物作りのあるべき姿を「陶山遺訓」として、そして使用人との間に「陶山永続方定書」を取り交わします。
宣珍はまた測量のためこの地を訪れた伊能忠敬を道案内し、測量技術を教授されたり、天草の歴史と地誌を上下二巻にまとめた大著「天草島鏡」を遺すなど、幼い頃より学問に秀でた人物でもありました。

高浜の庄屋であり、高浜焼の窯元であった上田家七代・宣珍は六代目の父が始めた陶山の経営と製陶業を継承し全盛期を迎えますが、経営は苦難の連続でもありました。しかし陶石販売と製陶業を村の繁栄のためと考え、焼物作りのあるべき姿を「陶山遺訓」として、そして使用人との間に「陶山永続方定書」を取り交わします。
宣珍はまた測量のためこの地を訪れた伊能忠敬を道案内し、測量技術を教授されたり、天草の歴史と地誌を上下二巻にまとめた大著「天草島鏡」を遺すなど、幼い頃より学問に秀でた人物でもありました。

上田家

木山陶石初代の木山直彦は慶應義塾で学び、福沢諭吉から「天草に生を受けたのなら陶石を是非おやりなさい」と陶石採掘の道を直接指導されたそうです。政治経済のリーダーとしても地元を支え力を発揮した直彦は、陶石業における繁栄期を築き、原料供給などで瀬戸地域へ意欲的に交流を図るなど、陶石を通し多くの地域への陶石の販路拡大を積極的に行いました。

木山直彦

水の平焼五代・岡部源四郎は明治中期に有田工業学校(陶業科)に学び、帰郷ののちは熊本県からの依頼により全国各地の陶業地を視察。熊本県における窯業の振興と近代化に対する様々な提案を行いました。その後、釉薬の開発に打ち込み赤海鼠釉の開発に成功、水の平焼の名声を不動のものとします。特筆すべきは明治43年の日英博覧会に出品された「赤海鼠あかなまこゆうコーヒーセット」で、形状もモダンで美しく博覧会より銅賞を受賞しまた。

水の平焼登り窯での作業風景(明治40年頃)

水の平焼五代・岡部源四郎作の「赤海鼠コーヒーセット」

岡部源四郎と同じく有田工業学校で学んだ、丸尾焼三代・金澤武雄は、東京、山形、沖縄、栃木など日本各地の窯業指導所の新設や工業学校での指導など窯業の進歩と拡大に力を注ぎます。天草においても天草中学校窯業部を創設するなど次世代の技術者養成のため尽力しました。
いずれの人物も製陶を地元経済の基盤としてとらえ、数々の苦難を乗り越え、よりよく豊かに生きるため、良いもの作り、永続するための方策を考え続けました。島の宝である天草陶石の発展、担い手の育成のために知恵をしぼり、行動し力を尽くしました。
その姿は現代に生きる私たちのしるべになっています。

天草中学窯業部大煙突

天草中学窯業部の実習風景